西郷さんと大久保さんの「Why」

司馬遼太郎さんの「翔ぶが如く」を読み進めています。今、第三巻を読んでいます。明治維新後の明治政府のことを西郷隆盛と大久保利通を中心に書き進められています。

二人は征韓論を巡って激しく対立します。西郷さんは自分が韓国に行って韓国に物申したいと主張します。大久保さんは今の日本にはそのようなことをして海外で戦争をする余裕はないということで反対します。結果は大久保さんの主張が勝って、西郷さんは職を辞して鹿児島に帰ってしまいます。西郷さんはやがて西南戦争を起こし、自害します。大久保さんは近代日本の骨格を作ることに尽力します(途中で暗殺されてしまいますが)。現実においては西郷さんが敗れ去り、大久保さんが残ったということになります。

ところが、後の世の評価は、圧倒的に西郷さんが人気ですね。大久保さんは故郷の鹿児島においても不人気だそうです。

西郷さんは、なぜ戦争を覚悟して韓国に渡ろうとしたのか。司馬遼太郎さんは次のように説明します。西郷さんは新国家を(明治維新実現のために戦った)士族が持っていた颯爽とした精神像によってなるものと考えていた。しかし出来上がった新国家は立身出世主義、利権と投機だけに目の色を変える新興資本主義を骨格としたものに成り下がっている。したがって、

外征することによって逆に攻められてもよい。国土が焦土に化すのも、あるいは可である。朝鮮を触ることによって逆にロシアや清国が日本に攻めてくることがあるとしても、それはむしろ歓迎すべきことである。百戦百敗するとも真の日本人は焦土の中から誕生するにちがいない。国家にとって必要なのはへんぺんたる財政の収支表や、小ざかしい国際知識ではない。

司馬遼太郎「翔ぶが如く」

これが西郷さんの征韓論のWhyだったと考えます。

一方、大久保さんのWhyは「せっかくテイクオフした日本を何とか近代国家として自立させる」ことだったと思います。日本にはお金も物資もなく、どう計算しても韓国と戦争なんてできないという主張です。国内外の情勢をとても冷静に分析し、物事を判断していますし、論理的だと思います。しかし計算や理屈が表に出て、ちょっと当たり前すぎてつまらないということもできるように思いました。

二人の人間的魅力の差はこのWhyから感じることができ、これが後世における好き嫌いにつながっていると思いました。西郷さんの主張が通って、明治初期の日本がロシアや清に攻められて、植民地になっていたらどうなっていたのか。遠回りして、今の時代には全く異なる日本になっていたのか、それは分かりません。

しかしこの本を読みながら、私はパワーのあるWhyの怖さを感じました。人々を心から動かすWhy、これが時には組織の発展に大きく寄与することがあります。ところが同じように、このWhyが論理や常識的な計算を超えて人々を誤った方向に導くことも十分に可能なのだなと思いました。典型的には、トランプ氏の非常に稚拙に思えるWhyがアメリカ人の過半数を動かしたような、また麻原彰晃のWhyが信者を動かしたような。

村上春樹さんが河合隼雄さんとの対談で語っていたのは、このことだったんだなと思います。麻原彰晃が如何に単純で稚拙なWhyを唱えて信者を動かしたか、そして小説家としてそれに対抗するよき物語を提示することが使命だと。

ビジネス系の記事ではWhyをベースとして組織を率いることの重要性を説明していますが、自分がフォロワーの立場に立った時に、Whyを冷静に評価できるリテラシーを持つことが重要だなと考えさせられました。