人はなぜ生まれてくるのか:南直哉著「恐山」を読んで
私は生物系理系の人間でして、霊魂とか死後の世界とかは信じていません。炭素、水素、酸素、窒素原子を主体とした物質によって生物の体はできており、それらが自己複製を目的として複雑に統合されたシステムが生物であり、自己複製の目的を終えたとみなされれば(みなされる年になれば)システムは徐々に崩壊し、やがて維持できなくなって元の原子に戻る、と考えています。ボ・ガンボスが歌うように「死んでしまえば、全部おしまい」です。
そんな私ですが、ずいぶん前にTVで放映されていた「オーラの泉」はよく見ていました。江原啓之さんと美輪明宏さんがMCを務め、毎回ゲストのオーラを診断したり、守護霊的な存在からのアドバイスを伝えるという番組でした。ゲストの方しか知りえないようなプライベートな内容が明かされたりして、本当にオーラや霊が見えているのかなと思わせる反面、実は事前調査しているのだなんて批判もあったりした番組でした。
私は霊視とか守護霊とかを信じているわけではありませんが、江原さんや美輪さんがおっしゃることは、苦しい人生を生き抜くための一つの考え方として納得のいくものだと思っていました。江原さんは、現生は魂の修業の場だと言います。魂は輪廻していて、現生に誕生するときに課題を与えられている。その課題をやり抜くことで魂のレベルが上がり、また次の課題を背負って生まれ変わるのだというのです。例えば生まれながらに障害を負っている方は、その障害を背負って生きていくという課題を与えられているのだと。その障害に正面から向き合って人生を全うすることが、その魂にとってのその現生における修行だというのです。
課題を与えられた魂は、生まれてくる親を選ぶことができるとも言います。この両親であれば自分が課題に取り組むのをサポートしてくれるだろうと。
私は人生は楽しいことよりも苦しいことの方が多いし、その苦しさは往々にして理不尽であると感じているのですが、課題として設定されたものだと言われるとなるほどという気がします。人生は苦しいのがデフォルトということですね。このような考え方は、事の真偽とは別の次元で、苦しい人生を何とか自分を納得させて前向きに生き抜くための支えになってくれるように思います。
南直哉さんの書かれた「恐山」という本に、同じような意味合いの文章を見つけました。
仏教において、この類の話(註 死後の世界があるかないか)は大して重要ではないんです。それよりも、人間が生きていると、嬉しくて楽しくて結構なことよりも、切なくて辛くて苦しいことの方が多い。それについてどう考えるか、このほうがよほど大事だとするのが仏教です(中略)
必ずしも簡単とは言えない人生を、最後まで勇気を持って生き切るにはどうするか。それこそが仏教の一番大事なテーマであって、死んだ後のことは、死ねばわかるだろう、くらいに考えればよい。それが仏教の公式見解だと私は思っています。
南直哉著 恐山 (新潮新書)より
宗教というのはそういうものなのかもしれないと思います。死後の世界や魂についての事実を語っているのではなく、苦しく理不尽な人生を生きなければならない人間が、それでも何とか前向きに生きていくための物語を語ったものが宗教なのかもしれないと。
といことで、表題の「人はなぜ生まれてくるのか」についての、現段階での私の解釈。事実としては原子で構成され高度にシステム化された生物の目的は自己複製にあるからだと考えます。両親の自己複製の一環として私が生まれ、自分の自己複製を残して死んでいくのだと。一方、自分にとっての真実は、私の魂は修行をするために生まれてきたのだと考えます。自分に降りかかってくる困難はあらかじめ設定された課題であり、その課題に前向きに対処して生きていくことが自分の修業なのだと。そうとでも考えないと、苦しみの多い人生を生き抜くことは大変困難であると感じます。
大事なのは、課題を解けるか、正解を出せるかということではないと思います。途中で寿命が尽きてしまうとしても課題に真摯に向き合ったのか、困難があっても前向きに生きたのか、その姿勢なのだと思います。
