安心と安全
2021年の東京オリンピック・パラリンピック大会。コロナ禍の中で開催され、「安心・安全な大会」という言葉が合言葉のように政治家の口から話された。安心と安全は全く異なるものなのに、慣用句がごとく連呼している政治家をみて、この人たちは何を考えているのだろうと思ったものだった。
安全はサイエンスである、安心は心の領域である。例えば日本人が食べているお米には有毒なカドミウムという物質が入っている。その安全基準は玄米の場合で1ppm未満。それ未満だったらカドミウムによって引き起こされる腎障害が起こる可能性は極めて低いというデータに基づいて判断されており、これがサイエンス。
一方で、腎障害を起こす物質が毎日食べるお米に入っているの??と不安に思うかどうか、これが安心。人によってはいくら可能性が低いといっても、不安になることだろう。安心にはきりがないし、個人個人で感じ方が違う。一番安心のハードルが高い人を満たそうとすると、カドミウムを検出限界未満にする技術が必要となり、お米はとても高価なものになるだろう。またカドミウムを除く工程によって別のものが混入するリスクも否定できない。では麦にするかとなると、麦には麦の課題が出てくる。
したがって、政治家は安全と安心を分けて説明しなければならない。安全についてはその根拠を、データをもとに、丁寧に説明すべきである。その際に何と比べてどれくらい安全なのかを示すことも必要である。安心については費用対効果を冷静に念頭に置いたうえで、それでもできるだけ多くの人の心に寄り添った説明が必要である。この時の首相はそういうことができていなかったと思う。
これを説明することは難しいことだとは思う。しかし難しいことをするために選ばれたのが政治家である。そういった努力をせずに、呪文のごとく安全安心と言って済ませている人たちは信頼できない。